批判の批判とは批判する意見や人をさらに批判することです。
賛否両論の状況になると特にTwitterでは批判と批判の批判が増えてきて楽しくない雰囲気になります。
特定の誰かを攻撃する意図はありませんが、批判の批判について私が感じることを書いていこうと思います。
題名通り批判の批判は正しくてもネガティブな言葉を増やすだけだと思うんですよね。
批判の批判はネガティブな言葉を増やす
応援してる人が悪く言われていたら怒る気持ちはよく分かるんですよね。
批判と意見は違うし応援している人への真っ当な批判なら私は怒りませんが、人格を否定するようなことを言われたら流石に怒ります。
ちょっと歪んでしまいましたが簡単な図を作ってみました。

ピンクが応援している人、緑が批判者、青が批判の批判者、赤い矢印が批判のつもりで作りました。
「応援している人は頑張っているのに悪く言うな」
基本的には批判の批判は応援している人が気持ち良く活動するために正しいことをしているとは思います。
ただこの図の例だと批判は2に対して批判の批判は6、コミュニティ内の批判の数が2から8へ4倍になっています。
対象が違いますがネガティブな言葉、強い批判の言葉が何倍にもなってしまうのが良くないと私は思います。
応援している人に直接注意のようなことはしにくいですが、応援している人を批判する人=悪い人だと思い込んだ他人なら大義名分もあり注意もしやすいため批判の批判は批判よりも多くなる傾向があるでしょう。
どちらも同じ批判で強い口調、ネガティブな意見に変わりはなくTwitterで批判の批判が増えてくると殺伐とした雰囲気に感じます。
同じ批判だと自覚を持たなければならないのではないか
批判の批判をやめろと言いたいわけではありません。
批判の批判をしなければならない状況はあると思いますし、怒っているのを無理矢理抑え込んでも嫌になってしまうと思います。
「批判の批判も同じ批判でありネガティブな行動であることを自覚しなければならないのではないか」
これが今回一番言いたいことです。
例えば深夜に若者が2人話をしているのがうるさくて寝れない場合を想定します。
この若者達を注意してくれる人がいたらその行動は正しいし評価されるべきでしょう。
しかし注意する人が自分の怒りをぶつけるように怒鳴って注意したらどうでしょうか?
この説経が何十分も続いたら一番うるさくて迷惑なのはこの注意した人です。
自分が寝れなくて腹が立って怒鳴って周りに迷惑を掛けているなら、それはもうしょうがないと思います。
ただ「近隣の方々の睡眠が妨害されているから注意しなければならない」と思って怒鳴っていたならそれは違うと私は思いますし、この人は悪い人だと思います。
睡眠が話し声で妨害されている、その要因を取り除くために行動するなら怒鳴る必要はなくただ話し声が気になって寝れない事実を伝えるだけで良いのではないでしょうか?
注意した結果さらに騒ぐようなら警察を呼ばなければなりませんが、話し声が迷惑になっていることに気づいたら移動するなり声を小さくしてくれるはずです。
怒鳴り声で周りの睡眠を妨害する加害者とならず問題を解決することが出来ました。
何が言いたいかと言うと批判の批判をする時に「同じ批判をする批判者である自覚を持たなければならない」ということです。
Twitterで応援している人を批判する時に最大限言葉に気を使って批判したとします。
その批判した人を怒りのまま100%の言葉で批判したら、深夜に怒鳴って注意する人と同じことをしていないかと言いたいのです。
応援している他のファンのため、応援している人のために批判の批判をするなら言葉には注意しなければならないと思います。
そしてネガティブな強い言葉を発信する批判者である自覚を持たなければならないでしょう。
怒りのまま書き殴ることもあるしそれはしょうがないことだと思いますが、もし誰かのために行動するのなら一度どこかに下書きして言葉が強すぎないか言い過ぎていないか確認する必要があるのではないでしょうか?
全体の批判の総数を増やしている自覚を持って少しずつでも言葉を柔らかく出来たなら殺伐とした雰囲気も少しは和らぐと思います。