8月16日中国のbilibili動画に「KIZUNA AIファンのみなさんへ」という題名の日本語と中国語の声明文が発表されました。
なぜ中国にだけ出したのか、今後どうなっていくつもりなのかの説明が無くて個人的にはよりモヤモヤする声明文でした。
声明文の中で一番気になった言葉が「分人」です。
今まで見たことも聞いたこともない言葉で戸惑いました。
今回は分人とは何か調べて分裂したキズナアイは分人なのかを考えていこうと思います。
私は分裂したキズナアイは分人とは違うと思うし、その言葉を使うことがそもそも相応しくないと思いました。
分人とは
分人とは平野啓一郎さんが提唱する個人よりも小さな単位です。
『私とは何か—「個人」から「分人」へ』著者:平野啓一郎 ~諸悪の根源は「個人」~
講談社のこちらの記事が分かりやすかったです。
ただ正確に知るには平野啓一郎さんの著書:私とは何か—「個人」から「分人」へを読まないといけないと思います。
私の分人の理解は上記の記事情報だけで行ったので正確ではない可能性がある点注意して下さい。
分人は個人とは何かを自分が思考する時に用いる考え方の1つだと思います。
人間は接する人や環境で役割や対応・性格さえも変わる、それが当たり前の生き物でブレたり主体性がないのでは無くて「個人」という考え方がおかしくて、人や環境によってそれぞれ更に小さな単位「分人」があってその集合体が「個人」なのではないかと言うことです。
書いてて怪しい日本語になりましたね。
誰にでもいい顔をする八方美人は悪口のように使われがちで自分を持ってないように思われてしまいますが、人によって対応を変えるのは誰もがやっていることです。
学校での自分、友達と遊ぶ自分、家でくつろぐ自分は全く同じ自分ではないはずです。
全く同じ自分なんてないのに「個人」という固定概念に当てはめるとおかしくなるので、場所や接する人ごとに個人よりも小さい「分人」があるんだよと、だから確固たる自分なんてなくていいし芯がないわけでもないんだよという考え方です。
個人的に読んでしっくり来る考え方でした。
拙い図を作ってみました。

人間関係で「仮面を被る」という言葉があります。
本性を隠して人に接する言葉ですが分人はそれとも違う概念です。
仮面を被るだと本性・本当の自分がいて場面によって付け替えているイメージですが分人は本当の自分なんて無くて接する人や環境ごとにそれぞれ分人がいるイメージです。
赤い自分、青い自分、緑の自分がそれぞれいてこのバラバラの自分達の集合体が「個人」だと考えます。
逆に言えば環境や接する人に応じて対応の仕方や性格さえも変えていいじゃないのということだと思います。
暗い性格の自分がいるだから誰にでも暗く接し無くてはいけない、ではなくて明るい人には明るく、心許せる人に楽しく接してもブレてるとかではなくそれも自分を構成する1つの面に過ぎないから良いんだよという素敵な考え方です。
自分とは何か悩んでいる時に分人という考え方を知っていると気持ちが楽になりそうだなと私は思いました。
分裂キズナアイは分人なのか
分人とは何かなんとなく理解したところで分裂キズナアイは分人なのか考えたいと思います。
まず調べてみて思ったのが「分人」は自分の中の考え方であって人に押し付けるようなものではないということです。
分人だからこれも自分だからなんてワガママな言い分で、傲慢であったり自分勝手な振る舞いを認めろというニュアンスになってしまう気がします。
分人とは個人よりも小さな単位の様々な自分が存在してもいいと自分の中で考えるものだと思います。
なので声明文でこの言葉を使うことにまず違和感があります。
その上で例え話で考えます。
学校に通う学生がいてクラスではいじられ役の自分、部活では真面目な自分、塾ではおちゃらけた自分がいて良いというのが分人の考え方です。
クラスメイト部活の仲間といった人間達との関係性と運動をする場所勉強をする場所という環境が合わさってそれぞれ異なる自分が形成されたはずです。
対応する人や環境に合わせて自分は変化して分人がそれぞれ存在する時に連続性が必ずあるはずです。
関係性を構築していっているわけですから徐々に親しくなって相手を知って形作られた分人が存在するはずです。
学校のクラスメイトが塾の人と一緒にいる姿を見て「クラスに居るときと違ってやけに明るいな」と思っても一緒にいる人が違って築いてきた関係性が違うのですから別に変なことではありません。
それに自分といるときと違う友人の姿を見る経験は誰しもが一度はあると思います。
分裂キズナアイの問題点はキズナアイと視聴者の関係性もアイチャンネルやアイゲームスの環境も同じ状況で全く違う一面を見せてきた点にあります。
人や環境の変化で違う自分を見せるのが分人です。
人も環境も変わっていないならキズナアイの見せるべき姿は築き上げてきた関係性に基づく連続性のあるものでなければならないはずです。
分人の考え方に基づくなら3年間ずっと見てきたアイちゃんだけを見せなければならないのです。
学生の例なら突然クラスでおちゃらけたキャラクターになったり真面目になったら周りの人々はいつもと違う姿に戸惑い混乱するはずです。
毎日毎日コロコロ切り替わったら慣れるのか?恐らく慣れないでしょう。
気分屋と言っても今までいじられキャラという関係性を連続して築いてきたのに突然「今日はどんな性格なんだろう」と考えながら付き合わなければならなくなるのは面倒ですし苦痛だと思います。
毎日性格の違う気分屋でも新しく知り合った人ならばそういう性格なんだと受け入れて気分屋の分人の自分として認めてくれる可能性はあります。
分裂キズナアイは分人なのか考えると結論は違うとなります。
見てくれる視聴者もYoutubeの環境も同じ状態なのですから見せるキズナアイは1人だけのはずなのです。
違うものを突然見せられたら分人の考え方をすると戸惑って混乱するのは当たり前のことです。
分人の考え方ならば別チャンネルや別の配信サイトで環境を変えて今まで繋がっていなかった人々と繋がるなら分裂キズナアイも分人になり得るとは思います。
今の状況では分裂キズナアイは分人ではありません。
中国なら分人になるのか
考えてみると声明文が出された場所は中国のbilibili動画です。
Youtubeを見れない中国の人が集まる場所で「中国のみんなと、自分の言葉でお話ししたい!」と思った分人が中華アイちゃんです。
人も環境も違う場所で中国語で話せる中華アイは一応キズナアイの分人の要件は満たしているようにも見えます。
有志によって翻訳されたキズナアイの動画を2年以上投稿し続けているキズナアイ非公式チャンネルでなければの話です。
6月30日に公式になったこのチャンネルの登録者90万人の中国人が見てきたキズナアイは日本語を話すポンコツAIです。
bilibili動画の中で最もキズナアイを知る人々のいる場所で中国語を話す中華アイちゃんはキズナアイの分人ですというのは理屈が合いません。
キズナアイの発信した動画を有志の翻訳で理解して好きになって追いかけてきた人達のいる場所でいきなり中華アイちゃんが登場しても連続性も関係性もなく、人や環境によって変化する分人の考え方にもそぐわないと思います。
個人的には常に本人がリアルタイムで発信するYoutubeとは少し違ってbilibili動画のチャンネルは中国語字幕が必要なので有料の配信サイトの海外ドラマの一覧のようなイメージを持っていました。
鮮度が違うと言えば良いのでしょうか?
海外ドラマの一覧の中に日本語のメイキング映像が追加されていく感じで中華アイちゃんもbilibili動画の中でリアルタイムに発信する存在として棲み分けも出来てありなのかなと私は思っていました。
ただ分人の考え方だと明らかに違うと言わなければなりません。
もしも分人の考え方に沿って中華アイちゃんが活動するならばbilibili動画で新しく別にチャンネルを作る必要があったと思います。
それならば中国語で中国のみんなと繋がりたいキズナアイとしてファンを増やせたかもしれませんし、日本語のキズナアイは知らないけど中華アイちゃんは好きな人が出てくればそれは分人と言ってももしかしたらいいのかもしれません。
中国でアイちゃんと中華アイちゃんと話せるイベントを開催して、それぞれ全く違うファンの人が集まったなら恐らく理想とした「分人」的な思考での分裂の成功となるのでしょう。